* * *
四季たちと別れて地下へつづく石段を進んでいった桜桃と小環は、やがて現れた光景に目を瞠る。「……これが、牢?」
白っぽい青灰色の岩が削られてできているのか、降り立った場所は石段よりも明るかった。岩の性質だろう、灯りを準備しなくても青白いひかりが全体をうっすらと照らしている。そのひかりが拡がる先を見つめると、蛇行するように伸びている道へとつながっていく。手前には空っぽの房室がふたつ。壁を挟んで木でできた格子が柵の役割を担い、内側には座敷牢の所以であろう防寒用の茣蓙が敷き詰められている。ここから雁の姿は確認できない。たぶん、最奥の房室に入れられているのだろう。
粗末な造りだが、桜桃が思い描いていた牢屋に比べると、清潔感もあり、四季が言っていたほどひどいとは感じられない。「防空壕みたいだな」
小環も桜桃の言葉に応じ、ゆっくりと足を踏み出していく。青白く輝く岩をよく見ると、苔生した部分がある。どうやら岩は苔から養分をもらって発光しているようだ。奥の方の岩は寄生している苔の数が少ないらしく、光りかたが弱い。けれど、その奥深くで、蒼い人影がちらりとのぞく。
「……誰か、いる」
桜桃は小環の手をしっかり握ったまま、先へ急ぐ。雁がこの牢へ囚われてずいぶん時間が経っている。凍死しない程度に管理はされているようだが、それでも春の訪れない潤蕊の地下に閉じ込められているというのは、かなりの体力と精神力を消耗しているはずだ。
鬼造あられは雁の無事を伝えてくれたが、こればかりは実際に確認しない限りなんとも言えない。「寒河江さん……?」
地下に隠された座敷牢の奥に、雁はいた。
自分がどこの誰であるかもわからないような、空虚な瞳を黙ったままふたりに向けて。* * *
さっきまで厚い雲が覆っていた夜空から、牡丹雪が舞う。「また、雪か」
寮へ戻る途中にあった四季たちは首をあげ、空を見上げる。雲間からちらりと覗く藍色の空は、深い闇を髣髴させる。
* * * 「気がついた?」 「四季さん? なんで、ここに?」 桜桃は四季の腕に抱きかかえられたまま、ぱちくりと瞬きをする。自分はなぜこんなところにいるのだろう。たしか、小環と寒河江雁の暗示を解いて、危機に瀕している桂也乃の元へ向かっていたはずだ。「……でも、途中でおおきな地震が起こって」 「神々がふだんは隠している界夢の扉を開いたのさ」 「カイムの扉?」 まっさらな地面に下ろされた桜桃は四季の言葉に首を傾げる。「神謡に詠われている約束の地。北海大陸で寿命を迎えた魂が舞い戻り、新たな生命の息吹のために歯車を回す場所」 四季の言葉は抽象的でよくわからないが、桜桃はうん、と頷いて全体を見渡す。 空は青く、陸は白く、どこまでもどこまでもつづいている。白いのは雪かと思いきや、小さな白詰草の群生だった。桜桃は自分が初めて北海大陸で見た夢のなかの世界だと理解し、四季に向き直る。「扉が開くとき、神々は新たな天女の降臨を真に望む。さくら、君は選ばれた。カイムの地に春を呼ぶ天女として、神々は君の存在を受け入れたんだ」 四季は桜桃の額へ手を翳し、一瞬で星型の花の印を刻んだ。音もなく額から淡い薄桃色のひかりが芽生える。桜桃の身体が熱を持ち、彼女が立っていた足元には、白以外の、赤や黄色の色彩の花がゆっくりと空へ向かって開きはじめている。「ちょ、ちょっと待って。四季さん、言ってることがよくわからな」 「時間がない」 桜桃の戸惑いを遮り、四季はきっぱりと告げる。四季は識、になっている。桜桃は黙り込み、四季の言葉に耳を傾ける。「羽衣の役割を担う彼にも伝えてほしい。神謡から、きみたちが成すべきことはわかっているだろうから」 「小環はここには来ないの?」 「いや、君を追って来てはいるが……辿りつけるかはわからないからな」 「どういうこと? 界夢って一か所じゃないの?」 「同じとは限らないよ。神々が管理するこの箱庭はときどき時空の歪みを生むし、誤って海や川に落ちればそのまま循環の輪のなかへ
どこまでもつづく青い、蒼い、碧い世界。 白雲の向こうに佇むのは、湖水だろうか天空だろうか。小環は奇妙な浮遊感に身を委ねたまま四季たちの場所へ急ぐ。 ときどきすれ違うのは懐かしいひとたち。小環の母、蛍子は少女のような笑みを浮かべて彼を見送ってくれる。異母兄の湾の生母、篁八重がカイムの古語を口ずさんでいる姿も見える。ここは死後の世界なのだろうか。だとしたら、小環に呼びかけてくれた巫女装束の女性はきっと、桜桃の母、セツなのだろう。〈天と地を結ぶ始祖神の末裔(すえ)よ、至高神に愛されし娘を娶りて春の栄華を咲かすのじゃ〉 しゃらん、と錫杖が鳴り響き、小環の視界が反転する。あおかった世界に藍色が重なり、一瞬で色彩が奪われる。 目の前が白と黒に、占領された。「死んでまであたくしの邪魔をするなんて、愚かな女」 銀白のような髪を腰まで垂らし、緋袴に純白の袿を纏う女性の姿もまた、変貌を遂げていた。 あおい世界はしろい世界へ。まるで、冬の最中の雪原のような寒々しさ。そこに降り立っていたのは、見知った少女。「……梧」 黒く見えたのは濃紺のボレロだった。慈雨は小環を見つけるとにやりと嗤う。 突然現れた慈雨に、小環は驚きを隠せない。「いま、春を呼んでもらっては困るのよ。ようやく皇一族の人間をひとり、葬れたっていうのに」 「彼女をどうした」 「刺しただけよ? すぐに死んだらつまらないからあえて急所は外したけど、もう助からないでしょうね。ほら見て? あそこにいるじゃない」 慈雨が指で示した先には、淡い撫子色の西洋服を纏った桂也乃の姿があった。まるで異国の結婚装束のようにも見える。けれど、愛らしい花のような装いをしている彼女の表情は、能面のようにまっさらで、小環の知る彼女ではない。「おい、黒多! こんなところで何やってるんだよ? 戻って来い!」 小環の声は桂也乃に届かず、桂也乃の姿は煙のように消えてしまう。「無駄よ。カイムの術者でも戻るのが難しいこの界夢に彷
――だというのに。〈鋭いね。禁術を発動している〉 「そんなことしたら、出られなくなるじゃない!」 〈もとよりそのつもりだから心配しないで。あとのことは天神の娘と始祖神の末裔に任せて隠居するだけだから〉 まるで老人みたいだな、とけらけら自嘲する四季が、まるで目の前にいるように見える。「……知らないわ」 両手で耳を塞ぐ雁。けれど、四季の言葉は遮れない。〈ボクのことは忘れるんだ、いいね……朝になったら、忘れるんだよ、狩〉 泣きたいほどやさしい声音が雁に届く。 ふたつ名で簡単に縛られてしまう自分がもどかしい。「忘れるものですか! もう、ちからあるひとたちの暗示なんかに従わないんだから!」 そう撥ね退けても、四季の言葉は雁の心臓を抉っていく。 そんな雁を気にすることなく四季はふだんどおり淡々とつづけていく。〈まずは少し先で立ちすくんでるボクの式神を回収してもらおうかな。そしたら救護室で桂也乃たちと合流して。そこで朝まで休めばいいよ〉 「……ひとの話、きいてないわね」 呆れながら雁は頷く。最終的には四季に言われたとおりに動かざるおえないのだろう。〈伊妻の件には関わるな。彼女は魂の在り処を邪神に明け渡している。きみもわかるだろう? 桂也乃が刺されたんだ〉 「……皇一族の、始祖神の血が流れたのね」 〈彼女は帝都に伊妻の残党が慈雨であることを手紙で伝えていたんだ。彼女はそれを知って桂也乃を害した。けど、もう歯車は動き出している。帝都から追手が来る。それですべては終わる〉 慈雨のことを指摘され、雁は黙り込む。同室で学校生活を共にした慈雨は、自分をふたつ名で操り天神の娘を害そうとした慈雨は、すでにカイムの神々に見放されている。邪神を浄化しても、慈雨は戻らない。そう、四季は暗に告げたのだ。「……わかったわ」 彼女を救うことはできない。皇一族に属する桂也乃を害したのが伊妻の生き残りである慈雨だと、知れ渡ってしまったから。いままで革命の刻を待ち隠れていた彼女は、皇一
* * * 雁を連れて桜桃と小環は寮へ向けて走りつづける。いまにも飲み込まれそうな暗闇に、雁が編み出した蛍のような明かりを浮かべ、先導させて、後を追う。 大地が揺れる。土が膨れ上がり、地面に這っていた枯草が息を吹き返したかのように鎌首をもたげ、桜桃の足元へ絡みつく。「えっ?」 「桜桃!」 瞬息。ぱっくりと地面が割れ、桜桃の身体が吸い込まれていく。小環は救いを求めて宙を流離う彼女の手を掴もうとするが、届かない。「そんな」 雁は揺れつづける大地に慄然し、引き裂かれた小環と桜桃を見つめ、嘆く。「もはや、手遅れだというのですか……?」 事態を静観していた神々が、ついに天神の娘の身を欲したのだと雁は本能的に感じ、身体を震わせる。 鳴動をつづける大地を前に、小環は畜生と毒づきながら、身を翻す。「篁さん、何を……!」 「桜桃を追う」 「でも、彼女は」 「天女を生贄に求めるほど、神々は狂っているわけじゃないだろ? 邪悪なものに魅せられているのは、神々を利用した伊妻だ。神々が桜桃を必要としているのなら、俺もまた、それに従うまでだ」〈そのとおり、早くおいで〉「っ!」 ぴっ、と鋭い声が雷鳴のように降り注ぐ。雁と小環は視線を交錯させ、声の主が見知った人物であることを確認する。「逆さ斎……あなたなのね」 〈そうだよ『雪』の乙女。君はボクを識っているんだね〉 「……ええ、でも、なぜ」 「それより逆井! 桜桃をどうした!」 〈おお怖い怖い。手荒な真似はさせたくなかったんだけどね……ボクの腕の中にいるよ〉 「無事なんだな」 〈もちろん。君だってわかっていて訊いているんだろ?〉 「まあな。俺もいまからそっちに向かう」 〈辿りつけるかな?〉 挑発するように四季の声が木霊する。小環はその声を無視して天と地の狭間に開いた空間を見下ろす。深夜だというのに、向こう側の世界は澄み切った青空が海のようになみなみと注が
* * * ゆるやかに波打つ黒髪に、紺色に近い黒真珠のような瞳。西洋人形のような少女だと、初めて桂也乃を見たときに四季は印象を抱いた。けれど、人形のような容貌をしていても、桂也乃は生身の人間だった。好奇心旺盛で噂好きでお喋りで、喧しいくらいの女の子。事件が起こればあちこちに首を突っ込むおせっかい。四季もそんな彼女に、自分の正体をあっさり見破られ、図らずともワケありの女の子として扱ってくれたのである。桂也乃が大松皇子に雇われた間諜であると知ったときの驚きはいまも覚えている。そのときから、四季は彼女を護ろうと決めたのだ。胸に咲いた恋慕の情を秘めたまま。 黒椿の紋が押された密命。知っていたのは四季と小環だけだっただろう。 桂也乃が倒れていた寒椿の木立ちで、あられは穢れを祓うための清酒を振り撒いている四季を眺めながら、呟く。「そういえば、椿の印は黒多家が使ってるんだっけ」 「ああ。有力華族はそれぞれが象徴となる植物を持っているからね。黒多家は椿だよ」 「ふーん。藤諏訪が藤で、美能が薔薇だってのは有名だけど、向清棲と空我にもそれぞれ該当する植物があるんだよね?」 「向清棲は菖蒲だよ。『雪』との商談で使われていたって蝶子が教えてくれたけど……空我は。そういえば知らないな」 「桜じゃないの?」 「桜の花紋は、皇一族が使ってるだろ」 「じゃあ、梅かな……」 「梅か桃あたりだろうな……一概に花だと決めつけるのもどうかと思うけど。篁は竜胆だけど、川津は松だし鬼造は柳だ。水嶌は竹だから、第三皇子の名前が青竹なんだよ」 「伊妻は?」 「桐」 つまらなそうに四季は応える。伊妻が使っていたのは桐。そして『雨』の部族の長の名は梧。皮肉な偶然である。 と、脳裡に過ったところで、四季は身体をぶるりと震わせる。「……かすみ」 「何よ、あらたまって」 「来る」 その一言で、かすみも身体を強張らせる。 カイムの地に生きる神々が、動きだしている。四季の身体に、神々しいまでの気配が宿る。偶然か必然か、四季が自らの命を賭して禁
「何莫迦なことを言っているの、あたくしはまだ、天神の娘を手に入れていなくてよ?」 ――だけどその前に、準備をしなくてはならないの。 それだけ口にして、慈雨は箱馬車に乗って姿を消してしまった。間もなく日付の変わる深夜の夜闇に溶けていく箱馬車をじっと見送ったみぞれは、そこで緊張の糸が切れたのか、がくりと身体を地面に落とす。 空気のように佇んでいた私兵たちが顔を見合わせ、そのうちのひとりが気を失ったみぞれの身体を抱き上げ、慣れた手つきで運んでいった。 男は無言で、カツカツカツと小刻みに軍靴を鳴らして救護室の前で待つ。 その合図に気づいたのか、がらり、とボレロ姿の少女が、躊躇うことなく扉を開き、『雨』のふりをしていた恋人と彼に運ばれてきた姉を迎える。 みぞれを長椅子へ横たえると、男はあられのあたまをそっと撫でた。「雹衛」 「慈雨は、富若内に向かった。明日の朝には理事長を連れて天神の娘を手に入れに戻ってくるだろう」 やはり。慈雨は伊妻の乱を再び起こそうとしている。天神の娘を使って。 あられは頷き、雹衛の冷たくなった手をきゅっと握る。「そう」 「妹たちは?」 「かすみと四季さんなら、さっきまで黒多さんの傍にいたけれど」 禁術をつかうと決意した四季と、それに従うことになったかすみは、あられに桂也乃を任せ、外へ行ってしまった。ここだと土地神のちからを充分に享受できないからだと四季は口にしていたが……「ふん。禁じられた秘術、か」 「知っているの?」 「カイムの民なら誰でも知っているさ。逆さ斎の少年は、そこまでして帝都清華の令嬢を救うつもりなのか……?」 雹衛の言葉に、あられも頷く。彼が何を考えているかなんて知らない。けれど、もし自分が雹衛を失うことを考えたら、きっと禁じられた秘術だろうが救える手だてがあるのなら縋るに違いない。たとえ自分の命と引き換えになったとしても。 ――四季は桂也乃のために、命を投げ出すつもりだ。「そうね。それだけ彼は彼女を大切だ